批評家にならないということ

今回は重めです。

 

私が常に頭の片隅に置いているスローガンとして「批評家にならない」というのがあります。今回、少し思うところがあったので長くなりますが書いてみます。

まず、先に断っておきますが批評家といっても職業としての批評家だとか評論家だとかそういった話とはまた別の話です。

 

我々は、プライベートにせよ仕事にせよ、生きていれば日々新しい物事と出会い、課題が目の前に現れます。

そういった課題がすべて簡単に解決できるものであればいいのですが、残念ながら甘く見積もっても2:8くらいの割合で困難な壁にぶつかります。一応補足すると8のほうが困難なほうです。

そういった際、人は一般的にその物事を批評してしまいがちです。

(フェアじゃないですね、「人は」じゃなくて「主に私は」です)

この場合の批評とは、周りの何かに原因があると考え、それが良いものなのか、悪いものなのか自分の物差しで測り、少し離れた位置から価値を決めつけることを言っています。

身近な例を挙げると、「僕の化学の成績が良くないのは学校の先生の授業がつまらなくて好きじゃないせいだ」とか「このゲームで勝てないのは運営側のこのシステムが良くないせいで、本来は云々」とかそういうこと。

そして、それは往々にして物事を諦める理由として形作られます。「~だからやらない」とか「~だからやめた」とか。

私はこれまで、何度もそのようにして向き合うべき問題から逃げた経験があります。恥ずかしいことですが、1回や2回の話ではありません。

ただ、今思えば、実際のところそれで何かをやめるとかやめたこと自体はどうでもよかったのです。

問題の本質は、何かを諦める時にその原因を外部に求めてしまっていたことです。

 

我々はいつまで経っても人生のプレイヤーです。自分の物事は常に自分で解決するしかありません。楽しいことも悲しいことも常に自分で責任を負うことが求められます。

正直言って、批評するのは愉快なものです。安全な位置から、偉そうに意見できるのですから。

ただ、どこまで逃げてもその課題は私自身の中にあるのです。

外側に向けて安全地帯から批判したところで、私自身の課題はいつまで経っても解決しない。

これが「批評家にならない」ことをスローガンに置いている理由です。

繰り返しになりますが、自分の物事は常に自分で解決するしかないのです。それとしっかり向き合って、そのうえで判断したのであれば結果はどうとでもなります。

これを読んで少しでも誰かの気持ちが楽になれば、あるいは奮起するキッカケになればと考えて書きました。

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このページは、ワセヨビ西船橋が2019年6月24日 20:37に書いたブログ記事です。

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